
吾輩はフリーランス猫である。仕事はまだ、それほどない。
この社会を自由に生きられる方法を拾い集めている真っ最中である。
コロナで自粛、東京オリンピックも延期、景気も良くならないし、この国はどうなってしまうのかナァ…。
そんなふうに落ち込み気味のあなた! 歴史の偉人、吉田松陰(よしだしょういん)先生の生き様を知ると、気持ちが奮い立ってきますよ!

吉田松陰? 名前は聞いたことがあるけど、何をした人?
天下統一?

天下統一はしてないナァ
だから織田さんや豊臣さんや徳川さんに比べたら地味な印象かも。
でも、吉田さんは、本当にすごい人なんだナァ!
実際に吉田松陰の生誕地に出向いて調べてきたんだナァ!


へぇどんな人なの!?
難しい歴史用語はナシで、簡単に教えて!
分かりました。吉田松陰(よしだしょういん)を簡単に一言で表すと
えげつない行動力と影響力を持った天才
と、言えます。知れば知るほどすごい人、今回は吉田松陰がどんな人なのか、猫でも分かるレベルで解説していきます。
子どもの頃から頭の良さがヤバかった!
吉田松陰は1830年、山口県萩市(当時の長州藩 松本村)に生まれました。幼い頃からとにかく勉強熱心だったそうで、叔父に兵学を学びながら、たくさんの本を読んでいたそうです。

まぁ、本好きの子どもは今でもけっこういるナァ
私だって「コロコロコミック」とか「りぼん」読んでたナ!
それだけで天才っていうのは…
そんな吉田松陰は9歳のときにその能力を認められ、明倫館(めいりんかん)という藩校の兵学師範(先生)になりました。

ナナナァ!
9歳で学校の先生!!??
ヤバイですよね。自分の9歳の頃を思い返すと、ドッジボールとかポケモンにしか興味がありませんでした。一方、吉田松陰は9歳で、兵学(戦の戦略・戦術、軍の管理、経理などを学ぶ学問)の先生になってしまったのです。
「松本村に天才あり」と、萩の城下に噂が広まったそうです。
ガリ勉タイプと思いきや行動力もヤバかった!
勉強ができても、本ばかり読むガリ勉タイプって、インドアなイメージですよね?

そうに違いないナァ!
偏差値が高くても
頭でっかちな知識バカもいるナァ!
嫉妬でフリーランス猫の口が悪くなっていますが、さらに彼女を追い込むことになります。なぜなら、吉田松陰は行動力もすごかったからです。
当時の日本は完全なる鎖国状態。

外国人来るなぁ!
打ち払ええぇぇぇ!
(なぜなら、こえぇ!)
幕府が徹底的に異人(外国人)を拒否している時代です。そんな中1850年、吉田松陰は21歳のときに長崎へ出かけます。長崎は日本で唯一、鎖国時代にヨーロッパにのみ貿易の窓口が開いてた場所です。
そこでいろいろな文化や文明に触れ、吉田松陰は学びへの好奇心をさらに高めていきます。熊本まで足を運び九州遊学を行います。

ぐぅ…
ま、まぁ山口県から九州遊学くらいなら
そんなに大した行動範囲じゃないナ!
その後、もっと学ぶ必要があると思った吉田松陰は江戸(東京)へ向かい、佐久間象山(さくましょうざん)という松代藩士の下で砲術や蘭学(西洋の学術)を学びます。
それでもまだ学び足りない吉田松陰は、今度は東北の方へ旅立ちます。
もちろん、飛行機も新幹線もない時代です。

す、すごい行動力…!

た、たしかに…
ところが、当時の日本は旅をするのに許可がいる時代でした。吉田松陰の東北への旅は無許可だったので、罪に問われてしまうのです。
旅行好きかと思いきや行動力の内容もヤバかった!
1853年、東北への無許可旅の罪を許された吉田松陰は、それでも懲りません。
同年6月5日、日本に開国をせまるアメリカ軍の軍艦「黒船」が来航します。率いるはアメリカ海軍のペリー提督。当時の日本のお偉いさん方は大慌てです!

のわあああああ!
なんだあれはー!船でけーー!!
こえーー!!やべーー!!
助けてくれー!
だれか追い払ってくれー!
長い鎖国状態だった日本は、完全に「井の中の蛙」です。船といえば小さな木舟が主だった日本の海に、真っ黒で大きな軍艦の登場。誰もが驚き、恐怖におののきました。
そんな中、軍艦を実際に見て目をキラキラと輝かせたのが、吉田松陰です。吉田松陰は外国のテクノロジーに深く関心を持ち「海外へ行きたい」と、当時の日本では「嘘だろー!」と思われるような考えを抱くのです。
日本を守るためには、海外について知らなければならない
今にして思えば、吉田松陰の思いは正しかったと言えるのではないでしょうか。
実際に吉田松陰はすぐに長崎へと出向き、ロシアの船に乗ろうと計画します。当然、当時の日本は海外への渡航は禁止なので犯罪です。長崎へ着いたとき、残念ながらロシアの船は出港済みで、乗ることはできませんでした。

ナァ…吉田松陰の凄さはもう分かったナ
ロシアの船、出港済みで良かったナ
さらなる罪に問われるとこだったナ
吉田松陰がロシア船への乗船に失敗した翌年の1854年、ペリーの黒船が日米和親条約を結ぶために再び来航します。
いても立ってもいられない吉田松陰は小舟でその黒船に近づきます。そして「外国へ連れていてくれ!」とペリー提督に直談判するのです。

ナナナァ!
日本人が恐怖していた黒船に自ら乗り込んで直談判!?
罪どころかその場で、殺されるかもしれないナァ!
吉田松陰自身、殺される覚悟があったといいます。それでも、自分の野望を叶えるためなら死んでもかまわないと、行動を起こしたのです。
結果、ペリー提督には乗船を断られてしまいます。
吉田松陰は異国船への無許可の乗船を自ら自首して、再び牢へと繋がれてしまいます。
行動力だけかと思いきや影響力もヤバかった!
黒船への乗船の罪により江戸で捕まり、山口県(長州藩)へ移され、投獄された吉田松陰。二度目の牢ですから、家に帰られるかどうかも分かりません。さすがにやる気を無くしそうなものですよね。ところが吉田松陰は牢の中でもとんでもないことをやってしまいます。
なんと、一緒に囚われの身になっている罪人たちに向けて、学問の授業を始めたのです。

罪人に向けて授業?
悪いことをした人たちが、勉強したいだなんて思うのかな…
友人猫の心配はごもっともですが、吉田松陰の講義は予想に反して大人気! 内容は「生きるとは何か?」「命とは何か?」等の主に「孟子の教え」の講義でした。
既に死刑が確定している罪人からも、吉田松陰の講義を通じて
「次に生まれ変わったら、松蔭先生の教えに学んで、人間らしく生きたい」
と、絶賛の声が上がったそうです。
吉田松陰はその後、牢を出て家に戻されます。そこで吉田松陰はついに
松下村塾(しょうかそんじゅく)を開くのです。
吉田松陰の講義の評判は全国に広まり、後の日本を明治維新へと導く大物たちが次々に門下生としてやってきます。
松下村塾の著名な門下生
久坂玄瑞
高杉晋作
吉田稔麿
入江九一
伊藤博文(初代内閣総理大臣)
山縣有朋
前原一誠
品川弥二郎
他
引用:http://www.yoshida-shoin.com/monka/monkasei.html(吉田松陰.com)

日本史における重要人物ばかりだナァ!
偉人たちを次々に排出した松下村塾ですが、実際に講義が行われていたのはわずか1年程度でした。吉田松陰は塾を開きながら政治への批判も続け、再度捕まってしまったからです。

ヤツは幕府に逆らう危険なヤツだ!
捕えろ!
(頭良すぎてあいつ、こえー!)
わずか1年で多くの大物を育てた松下村塾、吉田松陰の影響力がどれほどのものだったか分かると思います。
生き様だけでなく死に様もヤバかった!
1859年、吉田松蔭は29歳という若さでとうとう江戸にて処刑されることになります(安政の大獄)。
野望を持った男の死に様を、皆さんはどのように想像するでしょうか。常識的に考えれば「もっと生きたい」と、懇願しそうなものです。
ところが吉田松陰は一切の命乞いをせず、むしろ自分の罪を自らどんどん暴露して、幕府の政治を批判し続けてきました。しまいには自分が考えていた老中暗殺計画についても話してしまいます。
これにより、死刑が確定的になるのです。
なぜ吉田松陰は、少しでも自由になれる可能性を高める弁明をしなかったのでしょうか。そこには彼の「志」があったからです。彼の名言のひとつご紹介しましょう。
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
死で志が達成されるならば、いつでも死ぬ。生きて大業を成し遂げられるならば生きる。
吉田松陰は塾生たちに自分の「志」を託しました。見事な死を遂げることで、塾生たちに自分の影響力をさらに強めることを重要としたわけです。
首切り役の人間(山田浅右衛門)も吉田松陰の死に様を「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった」と回顧しています。

ナナナァ…見事だナァ。
参りましたナァ。
まとめ
吉田松陰が最期まで悪あがきをせず、見事な死を遂げた理由。それは、自分の人生に後悔なく生きて、その志の正しさに自信を持っていたからではないでしょうか。

もちろん時代を経た現代では、何より大切にするべきは「命」です。吉田松陰のように命を顧みず、生きて死ぬことをオススメはしません。
ただ、彼のように後悔なく生きること。学ぶことに喜びを覚え、好奇心の赴くままに行動し、正しいと思う考えを説いて、人を動かす。その行動力と影響力には学ぶべき点がたくさんあると思います。
今回紹介した吉田松陰の解説はほんの触りの部分だけです。教えの内容などは省いています。
ぜひ、興味を持った人は本やドラマなど、色々調べてみてください。
私のように、松下村塾の現地に足を運ぶこともおすすめしますよ。

それでは、またナァ!